跳梁跋扈・・・帝王の娘スベクヒャン 86話まで
韓国ドラマ「帝王の娘スベクヒャン」77話から86話まで視聴。
77話から怒涛の展開で、感想をブログに書き留めることも忘れて夢中になって視聴してました。
どうしてこのドラマが韓国では視聴率が悪かったのかなぁ~ 打ち切りなんて・・・
一番そこのところが謎です。
離れ離れになった人たちが、再会し、そしてまた新たな運命の扉が開かれていく。
物語は一回りをし、最初の舞台に戻ってきた。
このドラマでは「親子の愛」というものが根底に流れているなぁと感じているのですが、もうひとつここにきてクローズアップされてきたのが「忠誠心」だと思います。
国のために、身も心も捧げて、都合が悪くなれば切り捨てられていくピムン達、重臣たちの忠誠心。
国が成り立つのは、実は王の存在ではなく、その陰で自分の命も顧みずに働く人々の存在があるからです。
「忠誠心」とは何なのかも問われています。
王が偉大な訳ではない。
「スベクヒャン」における桃の花は「愛」の象徴です。
たぎる思い、届かぬ思い、秘めなければならない思い、許されない思い、受け入れることができない恋心。
しかし恋に悩むソルランよりも、実は守百香となって国を守ろうとする姿の方が凛として好きです。
獏って知ってる?
悪夢を食べるという想像上の動物よ。
ずんぐりとしてかわいいの。
でも悪鬼を見ると恐ろしい姿に変身する。体中に毒の棘が生えてきて、口から地獄のような炎を噴く。血をふりまきながら歩くの。
こうなると誰も見わけられなくなる。
父さんも、母さんも。
・・・友もね。
ソルランの独白は予言です。
ソルヒは偽スベクヒャンになりすましていると侍女のナウンに見破られて、ナウンにゆすられてとっさにナウンを殺してしまいます。
ナウンのソルヒへの追いつめかたも、えげつなくってもう殺されてしまいそうな雰囲気ぷんぷんで心配しておりましたが、やっぱりです。
ナウンを殺してしまったソルヒは、自分の体に殺人鬼の血が流れいてるとおののきます。
そう考えると、やっぱりソルヒはクチョンの娘なんだなぁ。
ただ、殺してはいませんが、自分の利にならないソルランや、せっかく再会したクチョンを百済から追いやるソルヒ。
自分で自分の身内を自分の人生から消し去ろうとういう行為は、殺すことと同じくらい罪深いのに、ソルヒはそれに気づかない。
ソウの演技が鳥肌が立つほど好きでね。
「整形モダニズム」の最高峰(笑)と言われる、彼女のその美貌が、一皮むけば、なんだかドロドロしたものを含んでそうで、恐ろしくて目が離せません。
それこそ、ソウの美貌の下にこそ、すべての罪があるのよっていう感じがします。
ソウには、ビッチな役が良く似合う。もっと、もっと、ソルヒが嫌な女になりますように。
しかし、冷静に考えるとソルヒは可哀そうな女の子なんです。
きっと愛が、あふれるほどの愛が欲しかったのでしょう。王女になれば愛が手に入ると思っていたのでしょうが。現実は甘くない。
むしろ王女とは、国策の駒のひとつでしかないことに気づくのです。
自分の意志がどうであろうと、他国との関係で政略結婚をさせられる。他国に結婚という名の、人質になるしか存在意義がないことに思い至るのです。
だから。
だから、姉を捨て、父を捨てた彼女は、今度は百済という国を捨てるのです。
百済の王妃という座を手に入れるために、またしてもソルランや、ミョンノン、武寧王のキンムとの和平交渉をとん挫させようとする。
愛を手に入れようと、他人のことは考えない自己中心的な、どこか人間性が壊れてしまっている女の子なんです。
そもそも、この物語の冒頭からソルヒは、そういう性格の女の子でした。
綺麗な花を手に入れようと、たとえ崖から落ちようとも、その花を手放さない。
自分を助けようとした姉を危険に追いやっても、花を手放さない。
偽スベクヒャンとして、百済を手に入れようと策略をしているソルヒを見ると、鳥肌が立ちます。変わっていなくて。
思えば、彼女の欲しがる愛のカタチを、無償の愛をささげてくれたのは、サドだったのに。
あまりにも早くサドが死んだために、無条件で自分が受け入れられているという実感がないまま、百済での自分の存在を強くしようと、暴走してしまっているのね。
ソルランですら自分とミョンノンの愛を守るためにキムンに向かおうとする時点で、ソルヒを救うのを、妹に無償の愛をそそぐことを諦めています。
ソルランが予感したように彼女の選択は、ソルヒにとっては最悪の選択でしょう。
たとえソルヒが偽スベクヒャンとして生きることを熱望したとしても。
クチョンもまた、ソルヒの嘘を見抜きながら彼女を百済に残して去るのです。
ソルヒは自分に都合の悪いものを切り捨てているつもりでしょうが、実は捨てられているのはソルヒなのに。
彼女の欲している愛のカタチを受け入れることなく、自分から捨ててしまうのね。
ソルランもクチョンも、サドも。
ソルヒを止められるのは、ソルランしかいない。獏となって。
ソルラン、ソルヒ、チンム公とそれぞれのキャラクターが影の部分をうまく演じているのに、ミョンノンはただただソルランへの恋心に苦しんでいるだけの存在で、ちょっと物足りないなぁ。
高潔で、チャーミングな太子だけれども、あまりにも満ち足りてしまっている感じがね。
ソルランへの抑えきれない恋心が発露するシーンは、心を揺さぶられるのだけれども、ミョンノン自身に危機感がない。
主役4人の中で一番、平たんな役なんだよね。
この先、自分の出生の秘密を知った時のミョンノンの変貌、苦悩に期待します。
そうそう、物語冒頭で崖から落ちそうになったミョンノンをソルランが助けるシーンですが、韓国ドラマあるあるの男女が逆になったバージョンですよね。
つり橋効果ですね。恐怖のドキドキを出逢いのドキドキだと勘違いするパターン。
たいていは女子が助けられるのですが、ここでは男子のミョンノンが助けられている。
実はこの物語、ソルランがヒーローでミョンノンがヒロインなのかも(笑)
いつもソルランを待っているミョンノンは、この後どうなるんでしょうか。
癒されるんです。かわいいのです。
実の子供に捨てられたクチョンと親に捨てられた子の子供が、共に旅をするのは運命でしょうね。
「スベクヒャン」では、相関図からもわかるように人間関係が対比になっています。
子供を捨てた武寧王と子供に捨てられたクチョン。
親に捨てられたチンム公と親を捨てたソルヒ。
実の父親のもとでは育つことができなかったミョンノンとソルラン。
妹を殺してしまったスンニムと妹から離れてしまったソルラン。
すべての関係が、綺麗に対比され、関係が連鎖し、交差し、物語を織りなしていくさまが、本当に美しい。
どの人物も悲しみを抱き、愛を探し、あるものは悪鬼になりかけ、あるものはその悪鬼を食い止めようとする。
脚本家のファン・ジニョンは「スベクヒャン」が初の長編ドラマなのかなぁ。わかりやすい展開なのに、ここまで計算されたそれでいて面白いストーリーを描いてくれています。
楽しみな脚本家さんです。
もぉ、もうもう、もぉ大変です、眉芸さま。
とうとう、あちらのルビコンを渡ってしまわれました。まあ、しかし境目を漂う姿の可憐なこと・・。チンム公、気持ちは分かるわ。
@感想をブログに書き留めることも忘れて夢中になって視聴・・。
ええ、ええ、もう!!この、ユカさんのご心境をなぞるように、心を千路に乱れ切って視聴しております。
えっと、(思い出せ、わたし) そ、SAW(そこ、離れろ)そう、このドラマ。
登場人物の誰もが、理不尽に見えても、
そうするしか無かったよね・・、と思い返させる、話の運びが上手いですね。
独り、蚊帳の外な眉芸サマ。
もう、この人の、あちらとの境目の刹那の姿は、ただ、ひたすら悲しい・・・。
この人の悲劇って、やはり、母なのでしょうか?
序盤の、お嬢様の不公平な子育て・・、あれは、確かに不公平ですが。
でもなあ、そもそも未熟なお嬢様の出来ちゃった婚なんですよね・・。
更に、障害者の下男に心を開いた、母。
眉芸様はそこが許せない、これも、分かる気がします。
とにかく、このドラマ。
どの人も、理不尽を言い訳にしない潔さと信念が、泣かせますね。
ああ、最終回はGW明けかぁ・・、長いよ~。でも、ネタバレは我慢、高等遊民の旅は続く・・。
FANさん、どもども~♪
「スベクヒャン」佳境ですね。終盤のたたみかけるような展開、醍醐味ですね。
序盤のまったりした感じは何だったのでしょうか?
>この人の悲劇って、やはり、母なのでしょうか?
これさ、私も考えた。
ソルヒってクチョンに似ているのかなぁって。
クチョンっていい人なんだけれども、でもチェファ以外のことではかなり冷徹だったでしょう。
チェファのためならどんなことだってやる。
そこがソルヒの欲しいと思ったらどんなものでも手に入れるというところにちょっと似ています。
だからソルヒは父が好きだけれども嫌いだった。同族嫌悪でね。
クチョンはチェファがいたからこそ、愛を知ることが出来たのよね。あとあの子供(名前忘れた・・・)
ソルヒもチンム公のおかげで愛を知ることができるのか。
反対にチェファの愛さえも捨て去るまっすぐさをソルランが受け継いでいるのかな。愛しているミョンノンさえも、置いて去ろうとしたソルラン。
似ています。
親の因果が子供に巡りの話ですけれども、実は子供も親と同じ選択をしていくのよね。
主題がリフレインしていきます(うまく説明できませんが)
そこらへんをじっくり考えたら、「スベクヒャン」はもっと奥深くなりそうね。
考えてみます~♪
姉・・・なんだかなあ。・・母と同じで、無意識に無慈悲ですよね。
考えに考えて、我慢しているのでしょうが、その一方で、大切な人を傷つけている自覚が無い。
あら?これって、朝ドラヒロインの真骨頂?そりゃ、苦手・・って、あ、失礼しました。
彼女を可愛がる父も、また然り、で。
それが、眉芸さまの疎外感を増長させていると、気づかない。
彼の、チンムへの半端な友情も、実は毒ですよね。でも、ああする以外に方法は無かったのかなあ・・。
と、跳梁跋扈な人物ばっかりに見えつつも、そうならざるを得なかった。
と、隙を与えないのが、このドラマ。
とにかくグルグルさせられます。(ほかに言いようが無いのか?)
HOW?どうやってこうなったか?ではなく。
WHY?なぜ、こうなったのか?に、重きを置いているのが、いいですね。
そして、そこに浸りきったユカさんの感想は、・・・・・・もう、桃源郷です。
末尾に辿る誘惑を振り切って、我慢していますが。眉芸様は、もう、戻らない?のだろうなあ・・・そのほうが、幸せかも・・。
FANさん、コメントありがとうございます♪
>眉芸さまの疎外感を増長させていると
まあ、肥大した自己肯定欲がそもそもの原因なのですけれどもね。
なまじか美人(という設定の整形モダニズムなのですけれどもね・笑)だと、ありふれた人生は満足できないのか。
「スベクヒャン」が面白いのは、美人は幸せになれないみたいなことが描かれている(笑)
王ですら、前世で罪を犯してきた者す、贖罪のために今世では王となり民のために心を痛める存在と描かれる。
美人だの、役職だのは人が幸せになるスペックではないと語られるのですね。
普通の時代劇に見えながらも、結構斬新なことをテーマにしていますよね。
>跳梁跋扈な人物ばっかりに見えつつ
不思議なのは、トリムの存在なのですよね。彼女はこの物語で一番初めに「名前を捨てた」人間です。
名前すら、自分の幸せ、かなえたい夢のためならば捨ててもいいのだ、なんて斬新ですよね。
いろいろなものに縛られて生きていく私たちですが、その縛りから放たれた時に訪れるものは幸せなのか、諦観なのか。
そんなことを考えさせられます。
yucaさん おはようございます。
yucaさん FANさんのコメントを読んでまたまたコメントを書きたくなりました。
この作品本当に大好きなのですが、実は1~3話って苦手なのです。多分最初から見ていたら、や~めたと言っていたかも。久々に1話から視聴、ふとチェファの言葉が気になりました。
“百済か私か選ばせる(?)”というセリフ。母の愛の形を娘ソルランは進化させたのかとも。ソルランは選択を迫っても自分を選んでくれるとは思うが後に後悔し恨まれることを恐れ去ることを選んだが、母は若い女性にありがちな愛は至高のもの その愛を得ているという高慢と思えるような自信それ故に素直に子を宿したことを伝えられなかった。そのことが父の命を救うこともできず、自分を苦しめ、子へも苦しみを背負わせてしまう。どの話も濃淡の差こそあれやはり必要なのだと実感。
自分への愛を信じ父への命乞いに行き、僅かの憐憫の情も寛容さも示されず、ユンの血縁の情の前に脆くも崩れ去り、打ち砕かれた姿 残酷だけど心惹かれました。
母となってからは現実路線で生きて行く姿が好きです。身はクチョンの傍にあっても、心はユンのもの。「あなたの娘が幸せだから私も幸せです」 彼女はどこまでも女性であり続けたのだなぁと悲しいけど好きです。
やはり私はソルランを選んでしまいますね。
愛 美しく甘美な響き 自分を他人を欺き、酔いしれたい。人は愛というとどこか寛容さを示すが、欲には厳しい目を向けるもの
愛と言っても所詮欲にすぎぬもの
だけど偽善者(=人に良く思われたい)の私は自分にどこまでも正直なソルヒよりソルランを好むのかも。
親の愛も不公平 無意識のうちに愛に差が出てしまう。同じ子どもと言っても別の人格 同じにはならないもの。だけど子は公平を、自分を一番にと願ってしまう。
愛って本当に難しい!!
段々わけのわからないコメントになりゴメンナサイ。
親子愛で下重暁子の「家族という病」結構面白い本です。
守百香廃人さん、コメントありがとうございます♪
「家族という病」、私も読みました。
実は「スベクヒャン」を見ながら、男女の愛よりも親子の情愛にどちらかというと強い関心を持ったのです。男女の愛を描くには、終盤が尻切れトンボですからね。
おそらくカットされた部分が一番ソルランとミョンノンの愛のカタチを、どんなカタチであろうとも語りたかったのだろうなと推察しております。
だから「スベクヒャン」は私にとって描かれた部分から考察できるのは、親子の情愛の物語だったりするのですけれども。
ドラマを見ながら、一番の悪役は誰だったのかしらと考えますが、皆少しだけ欲深く、少しだけ愚かで、普通の人間なのですよね。それなのに因果が絡まっていくさまは圧巻。
ソルヒが悪役だと思われがちですが、私には彼女はいたましくしか見えなかった。
王女になるというよりは、自分だけを愛してほしいそう彼女はずっと訴えていたから。
サドが彼女への愛に殉じ死んでしまったのは、ソルヒの一番の悲劇ですよね。彼女が欲しがっていた愛を彼は持っていたのにね。
そして、そんなソルヒを育てたのはやっぱりチェファやクチョンですものね。ちょっとだけ愚かしくて、切ない彼らの呪いがソルヒに振りかかったのです。
萩尾望都の「残酷な髪が支配する」というマンガがあるのですが、その中で語られています。
親が完璧ではないことが語られます。
だからソルヒにしろ、ソルランにしろ、ミョンノン、チンム、すべて名前を奪われて呪いをかけられた子供たちなんです。
しかし呪いをかけられた彼らは長じて、親を癒すことができるんですよね。呪いをかけざるをえなかった親の気持ちをたどることで親の深い愛を知る。
だからこそ武寧王は救われたし、チェファにしろ、クチョンにしろ子供たちの腕の中で去っていくことができたんです。親と子の関係をものすごく考えたのは、やっぱり私が黄昏時だからかもね。
ごめんなさい、私も支離滅裂なコメ返しで。
yucaさん こんにちは。
昨日は最終回でテンションmaxで訳の分からないコメントをして、付きあわせてしまいました。でも、つきあって下さって感謝、感謝。
「家族という病」も読んでくださっていてうれしいです。このスベクヒャンを見るとどうしても親子、家族について考えざるを得ないそんな気持ちにさせられます。来し方を顧みる黄昏族ですから仕方ないですかね。
最終回をサラ~ッと見て太子、チンム共に名は失ったが生まれた時の立場は失わなかったのでは。そうするために王様は二人を入れ替えたのではないかと。
yucaさんの王様のコメントに
>聡明だからこそ全てが見通せて、王というものがいかにちっぽけなものかを知っている男でした。
そして王の道は厳しく辛いものだともわかっていたからこそ実の息子には歩ませたくなかったのではないか。幼いチンム太子では百済が危機に陥ってしまうそんな状況を救うためにピンチヒッターとして即位し、ぺクカが暗殺を行ったために起こったねじれを正し、本来の姿に戻そうとするために入れ替えという行為を行ったのではと考えてしまいました。
ヨング、コマクの名が再登場しますが、別のブログで名前の再使用ってどう?という意見がありました。まぁそんなもんじゃないという程度でした。改めて見てソルランもソルヒもつらい旅路の果てにソルラン、ソルヒという名の原点(原風景)に戻ってきたのだと。
4人それぞれが原点回帰し、それぞれの相手と共に新たな旅立ちをする形だったのだと今回は思ったのですが。
全ての登場人物が視聴者と等身大(特別立派な人も悪人もいない)の人間ドラマだから離れられないんだろうなぁと。
スベクヒャンの中のそれぞれの物語にいったい何を隠したのですかと脚本家ファンジニョンさんに聞いてみたい想いは募るばかり。
最終回 好評のようです。しかし、Vol.66監督インタビューで悲劇的最後に取りつかれている私の頭の中はすべての物語はそこにしか向かっていないとしか理解できない状況です。もはや病でしょうか。
善徳女王放送開始前スペシャルを見ました。私が視聴していなかった内容が大まかにわかるようなダイジェスト版でした。百済兵が聖王の敵と言って百済王を襲うシーンからのスタートで病は更に重症化。
善徳女王は歴史スペクタクルでスケール感とスピード感で魅せる作品かなという印象でした。おなじみの顔が多くみられてその意味で楽しみです。質が違う感じがするので比較は難しそうです。後は好みの問題でしょうか。歴女の私か黄昏族の私かどちらに軍配が上がるのか。どう変わっていくのか行かないのかそれも楽しみに視聴始めようと思います。
今日もお付き合い下さってありがとうございます。
守百香廃人さん、コメントありがとうございます♪
>このスベクヒャンを見るとどうしても親子、家族について考えざるを得ないそんな気持ちにさせられます
そうなんですよね、同じです。時代劇なのに、実は国がとか民がというよりも家族はということも語ってくれています。
>ぺクカが暗殺を行ったために起こったねじれを正し、本来の姿に戻そうとするために入れ替えという行為を行ったのではと考えてしまいました。
ですよね。武寧王が東城王に対する信義は深いですよね。自分の愛を捨ててでも彼に殉じようとした。
誰よりも血縁の重みを大切にした王が、血縁に恵まれなかったなんて切ない。
>ヨング、コマクの名が再登場しますが、
「スベクヒャン」は名前というキーワードで見ると、ものすごく奥深いドラマだと思うのです。だから単に再使用というわけではなくやっぱり深い意味があるのだと思いますよ。そこまで計算されているのではないかしら?
>ソルランもソルヒもつらい旅路の果てにソルラン、ソルヒという名の原点(原風景)に戻ってきたのだと。
本当ですよね。
>いったい何を隠したのですかと脚本家ファンジニョンさんに聞いてみたい想いは募るばかり。
同じく!返す返すもあのインタビュー、私たちにやらせてくれたらよかったのに。
しかしマニアックすぎてNGかもね(笑)
俳優さんのラブシーンが恥ずかしかったとかそういう話はどうでもいいのですけれどもね・・・ 物語の構成や俳優さんがどういう風に役柄を捕えていたのか、そういうところに興味があるのですけれど。もったいない・・・
>善徳女王は歴史スペクタクルでスケール感とスピード感で魅せる作品
「スベクヒャン」がいかに予算がなかったかがインタビューで語られましたが、「善徳女王」は豪華絢爛ですからね。
このどちらが好きかは好みの問題になると思うのですが、「善徳女王」は私大好きです。
とにかく悪役ではあるけれども、実は誰よりも国を、民を思っていたミシル。彼女の政治論は深い。
そして時代劇の登場人物にしては、深く屈折したピダム。
様々な登場人物がいて楽しめますよ。
守百香廃人さんの感想を楽しみにしていますね。
こんばんはyucaさん。
「ソルナン、お前、これからここを発って敵に向かうことになる。
・・・・・・・
お前が私の心を捕えた女人であるとしても、死を逃れることは出来ないだろう。行け。行って、死ぬ覚悟で志を果たせ。 お前が生きて、ドキドキと脈打つ私の心は、、、私の血と肉が、粉となり 百済の領土に振り撒かれ、永劫の歳月が流れた後、、、
安らかになるはずだ。」
当初のスベクヒャンホームページに、
あったらしいのです。
ミョンノンは、自らソルランを密偵として
新羅に行かせる、予定調和とは?
スベクヒャンホームページにも有るように、
当初、ソルラン、ミョンノンの恋よりも
密偵としての国への忠誠が、中心で有り、
恋模様は、その過程に過ぎない?
何もかもが、覆されてしまうような、
このセリフは何を意味し、何を私達に
伝えたかったのか?
やはり、私の単純な頭では想像出来ません。
また、確実に死を予想しての密偵なのに、
危機が迫って、自ら助けに行くなんぞ、
矛盾だ~~あ~わかりませぬ~
その矛盾に人は涙するのか?
そんな展開で有ったにもかかわらず、
いつしか、ソルラン、ミョンノンの恋が
スベクヒャンストーリーの
主役に変化していった?
ストーリーの中で、ピムンの教官が、
トリムに忠誠心の意味、、、問いかけ?
ナウンに、忠誠心で死を選ぶな!
逃げろ!と、
もう、この時点で、ラストストーリーは
書き換えられていたのでは?
取り留めも無く、書いてしまいましたが、
私は、少女マンガ世代なのに、当時
マンガを読んでいません。読んでいないと
言うより、買え無かったが正しいかも。
ガラスの城、まったく読んでいません。
ストーリーを読み解く感覚は、
そこ、なのかも?と
しほさん、コメントありがとうございます♪
>行け。行って、死ぬ覚悟で志を果たせ。
まあ、素敵な情報をありがとうございます。ググると確かにミョンノン太子はそう語っていますね!
>何もかもが、覆されてしまうような、
いえいえ、やっぱり国よりも愛が勝るのだと思います。
だってミョンノンはきっと新羅に駆け付けるのですもの。
思い返せば、太子はソルランをスパイにする最終テストの時に優しい顔で残酷なことを命令しましたよね。
だから冒頭のセリフもそうなのだと思います。
ソルランの想いを封じこめながら、心から血を流しながら、ソルランに命じたのだと思います。
しかし最後国のために愛をも捧げようとしたミョンノンが単身新羅に走っていく。
まるで偽王女スベクヒャンとしてソルランが捕えられたあの晩のように。
理想や理念を、思想を差し置いてさえも愛のために走りださずにはいられなかったのじゃないかしら。
やっぱろ「スベクヒャン」は愛が描かれているのだと思いますよ。