愛はいつもタイミングが悪い・・・僕らのメヌエット6話まで

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台湾ドラマ「僕らのメヌエット」6話まで視聴。

 

悲劇その3 大人になってからも支えてくれる人は少ない
悲劇その4 人は一つの視点でしか見られない
悲劇その5 希望はいつも失望に取って代わられる
悲劇その6 時間はいつもタイミングが悪い

 

次々と悲劇語録が重なっていく「僕らのメヌエット」
このドラマの今までのところの悲劇をまとめると、ヒゲキとヤオチーの恋の速度が重ならないということなのでしょうね。
愛はいつもタイミングが悪い。
4話まではヒゲキ視点の片思いの青春をノスタルジックに描いていきます。
4話終盤でその視点が一気にひっくり返る構成はお見事。
それまでヒゲキと私たちが見ていた世界観がひっくり返ります。
4話までにも伏線としてヤオチーの気持ちは匂わされていましたが、はっきりと彼もヒゲキのことを愛していたことがわかる。
彼のヒゲキへのからかいは愛に基づいていたものだし、まなざしはいつも彼女を見ていたことが視聴者にも提示されます。
わかっちゃいるけれども、憎い設定です。こういうことされると悶えるよね。

 

ヤオチーはヒゲキが成長するのを待っていたのです。
ところがそこで人生経験豊富なヒゲキ母がヤオチーの気持ちに気づき、彼にくぎを刺す。
しかも一番言ってはいけない言葉を、呪いをかけてしまうのです。
「ヒゲキをあんたの母親のような目にあわせないで」と。
ヒゲキ母は母なりにヒゲキの幸せを願って言ったセリフですが、この言葉は父親のふがいなさのために母親に捨てられてしまったヤオチーの心を壊すには十分の呪いでした。
この時のラン・ジェンロンの演技がいい。
不器用で、人と言い争うのが面倒くさく静かに自分の中に言葉を飲み込んでしまうヤオチーそのままでした。
あふれそうな言葉を飲み込み、悲しみを飲み込み、ヤオチーは上を向くのです。
まるであふれ出す言葉と悲しみを再び飲み込むように。
でもその瞳からは悲しみがこみ上げてきて、あふれ出してきて、悲しみが止まらずただ茫然と立ち尽くすラン・ジェンロンの演技はいいなぁ。
この人、顔はくどいですが、まなざしの演技は絶品だと思います。言葉にできない想いを演じるのが上手。
ヤオチーが上を向くだけで、私も悲しみがこみ上げてきそうになります。
親のしでかしたことは彼のせいではないのに。

 

ヤオチーは少年期に母親に捨てられたという傷痕を持つ男なのです。
言葉で母親を説得できなかった、そのトラウマをいつまでも引きずっている男なのです。
誰かを傷つけるぐらいなら自分が傷つく方が楽だと思っている男なのです。
その彼にとってヒゲキ母のこの言葉は、あまりにも重く、切なく、悲しい。
誰かを傷つけるなんて、なんて簡単で恐ろしいことなのでしょうね。

 

 

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ヤオチーはその後台北に引っ越し、そこでシャオミンに再会し付き合うようになります。
高校時代ヒゲキを通じてシャオミンと文通していました。
手紙のやり取りを介在するヒゲキはシラノ・ド・ベルジュラックのように代筆をしていましたが、きっとヤオチーはそのことを知っていたに違いないよね。
だってヒゲキの筆跡は誰よりも彼は知っているはずなので、騙されるはずがありません。
ただ騙されたふりをして、ヒゲキとの手紙のやり取りだけが高校時代の彼のヒゲキへの気持ちを表すことができる唯一の手段だったのですから。
台湾ドラマの典型的な2番手ヒロインですね、シャオミンって。
どうして台湾ドラマの2番手ヒロインは美人で自信家で、自分だけが愛されていると思い、愛に対してほんの少し傲慢で鼻持ちならないのでしょうね。
「秋のソナタ」でも「ハートに命中100%」でも「君には絶対恋してない!」でも見てきたような、そんな2番手ヒロインです。

 

 

 

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「僕らのメヌエット」の2番手ヒーローはユエン・ファンはどこか不思議クン。
ヘッドホン愛用者でそれは外界の音をシャットダウンしたいという思いの表れ。
自分のペースを崩されたくない、余計な雑音に惑わされたくないという思いの表れ。
自分がコントロールできない状況が何よりも嫌いな男が、ヒゲキと出会い、そしておそらく彼女に振り回されて、振り回されて、そして恋に堕ちるのでしょうね。
どこか厭世的な、達観したまなざしを持った彼が、どう変わっていくのか。

 

 

 

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自分が知らなかったヤオチーと母のやり取りをヒゲキは10年後に知り、ヤオチーに詰め寄る。
「私のことを愛していたの?」って。叫ぶ。泣く。
ヤオチーの本当の気持ちを知りたい。
自分は愛されていたのか知りたい。
今でも愛していてくれているのかを知りたい。
しかし2人の間には、10年の歳月が横たわっているのよね。
この10年間は長い。愛し合っているのに時間と心がこんなにも離れている2人。
まるで物語冒頭のアニメーションのように万里の長城の両極から互いに向けて歩み出す物語が「妹妹」なのか。
ならば出逢った瞬間に彼らはマリーナ・アブラモヴィッチと恋人ウライの物語をなぞるのか。それとも・・・
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ヤオチーは何も語らない。彼は、いつものように自分の想いを、言葉を飲み込むだけで。

 

 

 

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ヒゲキとヤオチーの2人だけの秘密基地として「壁」が出てきます。
この壁は2人の育ってきた過程、2人の記憶であり、2人の言葉にできない想いをすべて知っている場所なのです。
その場所が、庭でもなく木の上でも洞窟でもなく、「壁」だとうことがこの物語が語ろうとしている象徴になっているよね。
2人は兄妹という「壁」を乗り越えることができるのかと問いかけている。
離れていた10年という時間を乗り越えることができるのかと問いかけている。
彼らがこの「壁」を乗り越えるのか、それとも乗り越えることができずに互いを愛する気持ちさえもがブラックホールの中に飲み込まれるのか。
シュー・ユーティンの作品は、一つの小道具、背景にも深い意味が隠されていて、それを読み解くのはとても楽しい。

 

 

 

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古今東西のアートや物語を引用している「妹妹」だが、5話で引用されたのは馬岩松(マ・ヤンソン)の「墨の氷」という作品。
墨の氷が時間の経過とともに溶けゆく過程が芸術であるという作品に、過ぎゆく時間を見る。
氷が溶けて後には何も残らないように、時間がすぎ去れば愛はカタチもなくなるのではないかという問いかけ。
10年という歳月のヤオチーへのヒゲキの想いもやがては溶けてなくなり、跡形もなくなるはずだとユエン・ファンは語る。
これは、でも、逆説的でこう語るユエン・ファンこそがこの後、愛に囚われていくのだろうね。
愛のカタチは、たとえその愛が成就せずとも心の中で大きなかさぶたとなって存在するのだから。
私の心の中にもあるし、あなたの心の中にもあるかさぶた。
例え氷が溶けてなくなったとしても、そこに氷があったという記憶は心に刻まれるのだから。
愛も同じだ。時間など関係ない。
愛はそこにあるのだから。

 

 

シュー・ユーティンは「我可能不會愛你」でもそうでしたが、愛と時間に深くこだわっている作家ですね。
そういえば2010年の作品「君に恋した328日」も、時間がテーマなのだと思う。愛はもう一度やり直せるかと問いかけているのだから。

その時々の、私の心の琴線に触れたモノ・・・ 小説や、映画、音楽、ドラマ、ファッションについてだけの簡単な備忘録。 Everything was beautiful and nothing hurt.

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