あはは、駄目だ笑けてきた・・・あまちゃん117回
人生には悲しみや怒りを通り越して、笑うしかできない場面もあるかもしれない。
その笑いは全てに対して、投げやりな笑い。
そんな絶望に満ちた、虚無的な笑いから、ラストにユイちゃんが笑った笑いはまた違った。
その笑いは、アキがユイちゃんに寄りそっていると、わかったときの笑い。
人との関わりで生まれてくる笑い。
それでもやっぱり笑いたい、笑って元気になりたいんだよ、っていうことは、言わなきゃいけないんじゃないかなと思って
(Cut 8月号 宮藤官九郎インタビューより引用)
ユイちゃんはアイドルになる夢を断ってから、ずっと切ない状況が、例え彼女が微笑んでリアスに座っていようとも、胸が苦しくなるくらい切ない状況が続いています。
そして117回ではとうとうその原因と向き合うことになり。
そんな状況でも、寄りそう友人がいるからこそ、笑えるのです。
誰かが側にいるっていうことで、笑えるんです。
やっぱり、だとしたら、そこに立ち向かって、それを(震災を)題材に書いても、またそこに意地でもギャグ入れてやろう、っていう気持ちがあったかもわかんないですね。それを望まれていると思うし、変わっちゃいけない部分だし。急にシリアスになるようなことは絶対したくないなあっていうのは・・・・・・ 「被災地から来たんでサインください」と一緒で、なんかその、追い込まれた状況を書いてもその中で荒川くんとか哲太さんが軽口を叩いてたりとかしつつ、でも震災を避けて通らず、っていう。そのどっちもできるっていうことを証明したいのかもわからないですね。
117回のシリアスさと、そしてシュールな笑いは、まさにクドカンが残り1ヵ月半で目指すものなんでしょう。
そのシリアスさとギャグの混在ぐあいを、嫌う人もいるかもしれないけれども。
田舎の人々の、特に今回の吉田君のゲスさと、大吉の思い込みの激しさで表していたけれども、素敵な部分、嫌な部分も描かれていて、それでもそこで寄りそうことの暖かさを描こうとしているのだと思うし。
個人の力ではどうしようもできない運命のシリアスさ、ゲスさに立ち向かうのは、寄りそうことであり、それによって生じる「笑い」なのかもしれないなあ。
そして、その「笑い」を、「希望」と呼ぶのかもしれない。
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